(あの日の光景をずっと覚えている)
先日もチラッとメモ程度に書き記したのだけれども、桜が咲き乱れている様子を眺めていると、純粋に美しいと感じ、春の訪れを喜び祝う気持ちがある一方で、曰く言いようのないそわそわとした落ち着かない気分に取り憑かれて、その咲き乱れる木の下に留まろうものなら気が狂ってしまうほどの魅惑的でいて、儚い危うさを孕んでいる花木は世界に桜くらいのものではないかと思ってしまう。
かつて在原業平も
「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」
と和歌に歌ったように、『業平公、超分かってるじゃん…』と非常に分かりみが深い。
好きだけれども、素直に愛でるにはあまりにも美しすぎるのだ(それでも満開だと嬉しくて思わず写真を撮ってしまうほどには浮ついているが…)。
端的に言って、これは擬似的な恋心なのかもしれない。毎年決まった時期だけにやってくる想い人。やっと想いを素直に伝えられる頃には、吹雪となって散っていく。
その、淡い薄紅色の花びらが絶え間なく降り注ぐ、この世のものとは思えない美しい光景に遭遇する度に、幾度となく身も心も引き裂かれてしまうような郷愁に襲われる。実際、私の心の一部は引き裂かれていつもあの季節に置いてきているような気がする。
敢えて色気のないことを言えば、自分にはHSPの気があるらしいので、おそらく感覚が人一倍敏感で、美しいものにも人一倍心を奪われてしまうということなのだろうと思う。
ガチ恋かどうかはおいておいたとしても、まるで恋するかのように、私は毎年桜に振り回されているわけだが、業平公のいうように、桜がなくなったらきっと今よりずっと気分は楽なのだろう。こんなに情緒をかき乱されることもなく、桜吹雪の下でその美しさに魅了されながらも曰く言いようのない不安定さに立ち竦むこともないのだろう。しかし、それでもまた来年咲いていて欲しいと性懲りも無く願うのは、やはり恋心のなせる技だろうか。